全段差動プッシュプル回路が一体どこでどういう風に成立したのかは、私にはわかりません。しかし、少なくとも私よりも以前に全段差動プッシュプル・アンプを製作された方はいらっしゃいます。また、全段差動ではありませんが、部分的な差動プッシュプル・アンプや、回路方式は異なりますが非常に良く似た考え方に立ったアンプが存在しました。差動回路は決して珍しいものではありませんから、全段差動プッシュプル・アンプは特別なアイデアであるわけでもなく、特別高度な技術を要求するものでもありません。しかし、どういうわけか、この回路方式を使ったアンプというのは滅多にお目にかかれません。とても不思議な気がします。そんな中でも、真空管による差動プッシュプル回路に着目し、より良い音を求めて実験・試作の努力をなさっている人々がいるのです。しかし、考え方の斬新差ゆえにそのほとんどが理解されないで埋もれているように思います。
■マイケルソン・オースチン TVA-1
マイケルソン・オースチン TVA-1は、初段がECC83(12AX7)差動プッシュプルです。共通カソード側は定電流回路ではありませんが、マイナスに引き込んだ電源を使い、高抵抗で定電流回路に近い動作を実現しています。ドライバ段はECC81(12AT7)を使った半直結差動プッシュプルで、共通カソード側はここも定電流回路ではありませんが、それなりの高抵抗が入れられていますので、立派に差動回路として動作します。真空管というデバイスを、その制約の中でトランジスタのように使っています。回路定数に悩み工夫した形跡があります。流石に出力段だけは差動ではありませんが、それでもこのアンプは他のプッシュプル・アンプとは一味違う音がします。大いに触発され、参考になったアンプのひとつです。
■ウィリアムソン・アンプ
ウィリアムソン・アンプの出力段の共通カソード回路にはパスコンが省略されています。ドライバ段の共通カソード回路においてもパスコンが省略されています。はじめのうちは、ごく感覚的に、この程度のことで「差動」と呼んでいいのだろうかと思ったのですが、まじめに捉えて考えてみると、カソード・バイアス方式にした通常のプッシュプル回路のカソード側のパスコンを省いただけの回路でも、かなり効果的な差動動作が期待できることがわかります。目から鱗のご指摘でした。そのことを受けて、Ayumi氏がわざわざ検証してくださいました。→ http://ayumi.cava.jp/audio/will/will.html
ウィリアムソン・アンプの出力段の共通カソードは、パスコンの書き漏らではないかという声もありますがとんでもない話です。このコンデンサを外すと最大出力は若干低下しますから、その数字にこだわると入れたくなります。真空管回路の古い常識を破るのはなかなか大変です。
■WE 42Aアンプ
私の前職のボスがほぼ完全な状態の42-Aアンプを持っていて日常的に使っています。このアンプの音を聞いた時、何の違和感もなく音楽に没入できたので、不思議なアンプだなあと思っていました。なんとなく全段差動PPアンプで聞いているような感じがしたのです。後になってウェスターン・エレクトリックのアンプ群の回路を片端から調べていたら、かなりのアンプで共通して妙な場所にチョークが挿入されていることに気がつきました。
右図は205Dプッシュプルを使った42-Aというパワーアンプの回路ですが、やはり妙な場所にチョークがあります。赤丸で示したチョークです。電源リプルの除去が目的ならばチョークと出力トランスのセンタータップとの間にもコンデンサを入れないと意味がありません。回路図の描き方からすると、このチョークは出力トランスのすぐ傍に位置しており、リプルフィルタ目的というよりも、出力トランスをセットで考えられていることが伺い知れます。
この場所にチョークを入れると、チョークは交流的にみて定電流回路のような働きをします。次にご紹介する「μモード・プッシュプル・アンプ」と同等の効果を得ることができます。私が聞いた音は、差動プッシュプルの音だったわけです。
その後、私なりにウェスターン・エレクトリックのアンプに関するドキュメントを調べ尽くしましたが、アンプの保守や運用に関するものばかりで、設計に関するものはほとんどなく、この場所に入れたチョークに関する記述を見つけることはできませんでした。
■μモード・プッシュプル・アンプ
ラジオ技術1993年8月号に藤井秀夫氏による「μモード・プッシュプル回路の実験B」が掲載されています。全段差動プッシュプル・アンプが、共通カソード側に定電流回路を挿入するのに対して、μモード・プッシュプルと呼ばれるアンプは、B電源側に定電流回路が挿入されています。この2つの回路は、動作のしくみは同じではありませんが、共通した特徴も持っています。たとえば、出力段の信号ループは、両回路ともアースやB電源を経由することはありません。従って、ともに非常に高い左右チャネル間クロストーク性能が得られます。
但し、μモード・プッシュプル・アンプでは、球のばらつきによって実際に出力段にかかる有効電源電圧が不安定になるという欠点があります。そのため、定電流回路に与えるべき電圧降下の余裕分が大きくなり、電源供給電圧はかなり高くしてやらなければなりません。しかし、この回路の考え方は大いに参考になりました。
■全段差動プッシュプル・アンプ
いろいろ調べているうちに、全段差動プッシュプル・アンプの草分けと思われる記事を発見しました。その記事には、全段差動プッシュプル・アンプの動作の特徴が整然と書かれています。それは、無線と実験1991年6月号の山口美紀氏の記事「定電流(差動)プッシュプル動作パワーアンプの試作」です。本誌をお持ちの方は是非一読なさってください。木村 哲ほんとうは全文を掲載したいのですが著作権上できません。ここでは、著作権に触れない範囲で、同記事の内容をご紹介します。
「定電流(差動)プッシュプル動作パワーアンプの試作」 「E188CC-5687差動プッシュプル回路+トランス+25E5/SEPPアンプ」
山口美紀氏
無線と実験1991年6月号より
このアンプ、25E5を使ったトランス式SEPP回路ですが、初段〜ドライバ+トランスまでの部分が差動回路になっています。「相川氏による出力段定電流(差動)動作・・EL34pp(1988.3)、6AS7pp(1990.2)」初段E188CCは共通カソード側に2.7mAタイプの定電流ダイオードを入れた差動回路です。次段は直結化された5687プッシュプルで、共通カソード側には4.7kΩの抵抗が1本あります。定電流回路ではありませんが、抵抗による差動回路となっています。氏は、この4.7kΩの抵抗に並列にバイパス・コンデンサを入れたりはずしたりすることで、音に変化が生じることに気がつきました。コンデンサを入れる(差動を殺す)と「ドライバーにどんな球を挿そうが、つまらない平面的な音になってしまう」と記述しています。
記事によれば、相川氏による2つの出力段定電流(差動)動作の存在が紹介されています。あいにく私の手元にその記事がありませんので、詳細をお伝えすることができませんが、相川氏は山口氏のさらに先人だといえるでしょう。バックナンバーを探したいと思います。「6DJ8-12B4A全段差動プッシュプル試作アンプ」初段6DJ8は共通カソード側に2.7mAタイプの定電流ダイオードを入れた差動回路、次段は直結化された12B4A差動プッシュプルで、共通カソード側はそれぞれ680Ωと100μFを経て共通化され、2SK699と定電圧ダイオードを使った定電流回路につながっています。正真正銘、これは全段差動プッシュプル・アンプです。以下、氏の記述のポイントをまとめます。
- 出力段の動作起点はIp-maxの丁度1/2に設定。
- 上下球の動作ラインは直線になり、OPTの公称インピーダンスの1/2相当のロードラインで動作する。
- カソード電位は常時変動し、2次歪み成分はここで吸収・打ち消される。
- 差動アンプでは電源の負荷変動がないために、電源インピーダンスやレギュレーションの問題がない。
- 電源回路の電解コンデンサーによる音質変化等からの回避も可能になる。
- 最大出力は低下する。
- 差動動作時と差動を止めた時では、差動を止めると定位が散漫になる感じで、この違いはほとんどの人が検知できる。
- 私のアンプの中では最も生々しく癖のない音である。
- たかだか3Wのミニアンプとは思えない馬力を見せつけられる。
- 音質についての不満はほとんどなく、主役の座の座ってしまった。
これほどに、全段差動プッシュプル・アンプについてまとめられた記事はほかにまだ見たことがありません。当時の私など、まだ考えもしなかった時に、このような密度の濃い実験・製作をされた山口氏に深い敬意を表します。
2002.9.23(作成)