「全段差動プッシュプル・アンプ」は、ビンテージアンプ崇拝に対する現代真空管回路技術の挑戦です。頂点をきわめたかに見える既存真空管アンプ群が居座るハイエンド・オーディオに対する挑戦でもあります。では、全段差動プッシュプル・アンプはどんな音がするのでしょうか。他の方式のアンプの音と違いがあるのでしょうか。このデリケートかつ重要なテーマについて考え、検証してみたいと思います。
■そもそも何故
最初のテーマは、「そもそも何故、全段差動プッシュプル・アンプが生まれたか?」です。自分でアンプを製作したり、人が製作したアンプやメーカー製のアンプの音に接したりしているうちに、やがて、出てくる音に限界を感じるようになりました。最初に感じたのは、メーカー製の量産型の普及機では、いくらカタログ・スペックが良好であっても「音として訴える力」のレベルはさほど高くないということでした。それが証拠に、はじめて自作した12AX7とEL34(3結)の簡単な2段アンプの音の方が、私だけでなく家族の評価も高いという現実に直面したのでした。
どのような違いがあったのかというと、ひとことでいえば、弦楽器やピアノに代表される中域の充実感でした。TANGOのU-608という小型の出力トランスを使ったシングル・アンプであったために、低域に関しては、後にどうしても限界を感じるようになりましたが、それでもメーカー製の普及機よりは魅力的な音がしました。この低域の不満は、TANGOの優秀な出力トランス"XE-20S"を使った6B4Gシングルを製作した時に、一旦解消することになるわけですが、どこかブレークスルーできないでいるまどろっこしさがつきまといました。
さまざまな実験によるプロセスを通じて明らかになったテーマのひとつが、左右のセパレーションの問題でした。1つのケースに組み込まれるステレオ構成のアンプでは、少なからず、左右間で信号の飛びつきが生じます。そのレベルは、1/100(-40dB)のこともあれば、1/1000(-60dB)のこともあり、優れた回路と実装技術があれば1/10000(-80dB)も無理ではありません。しかし、10Hzから100kHzの広い帯域にわたって安定して1/3000(-70dB)以上が確保されるためには、非常な努力が必要であること、そして、そのような努力がなされたアンプでは明らかに音に差が出ることを突きとめることができました。
もうひとつのテーマは、周波数特性です。それは、従来、可聴帯域といわれてきた20Hz〜20kHzでフラットであっても不充分であるということでした。耳で聞こえないはずの10Hzにおいて、-6dBの減衰があるか、ほとんどフラットであるかの違いは、30Hzの再生もおぼつかないはずの小型スピーカー(Rogers LS3/5A)でも明確に聞き分けることができたのです。また、高域特性が、50kHzでがっくりと落ちているアンプと、100kHzまで安定して伸びているアンプとでもやはり大きな違いがあるということです。(高域側については、後に仕上がりの帯域が広ければいいわけではないことがわかりました。)
それでもまだ求める音が得られたわけではありませんでした。空間に存在する音を、たった2つのチャネルに押し込めて伝送・保存し、これを再生するわけですから、出てくる音が平板で無機的であることに無理な注文をつけるつもりはないのですが、音楽の持つ魅力や感動の片鱗を、もうすこし表現することはできないものか、といつも考えるようになりました。
6B4Gシングルアンプの音を、さらに一歩前進させるための方法というと、いろいろな案があるとは思いますが、常識的には、(1)300Bのような、ワンランク上といわれる出力管に切り換える、(2)プッシュプル・アンプに切り換える、の2つが考えられます。しかし、この2つの方法のどちらを選んだとしても、おそらくは希望する音は得られないであろうことは、それまでのさまざまな経験からすでに体でわかっていました。
■常識を疑ってみる
出口は一体どこにあるのか。これまで常識だと思って受け容れてきた回路方式を疑うことからスタートしました。シングル回路:
シングル回路は、はじめから重い宿命を背負っています。ひとつは、出力トランスの直流磁化による低域特性の極端な劣化の問題です。どんなに優秀な出力トランスをもってしても、10Hzで、1W以上の歪みのない信号をフラットに伝送することはできません。たとえば、"6B4G"+"XE-20S"の組み合わせでも、10Hzでは出力の大きさに関係なく約3dBの減衰があり、5Wではすでに飽和領域にはいってしまって負帰還も無力となります。もっとコアボリュームに余裕のある出力トランスを投入したとしても五十歩百歩です。私は、この点がシングル回路における宿命的な欠点であると思います。あるレベル以上の音を要求しようとした時に突然現れる「越えられない壁」です。300Bであろうが、845であろうが、6BM8であろうが、シングル回路である限りこればっかりは越えられません。
後になって(2009年11月)になって確認されたことですが、出力トランスの低域性能に関しては、周波数特性では評価を誤るという事実です。出力トランスは低い周波数ほど磁気飽和による特性劣化が著しいですが、その劣化の様子は周波数特性には現れません。レスポンスが-2dB程度なのでちゃんと出ていると思ったら、30%以上の歪みが生じていて波形はすでに崩壊していたりするのです。
プッシュプル回路:
プッシュプル回路では、低域特性の問題は、シングル回路に比べて本質的に2ランクくらい上だといっていいと思います。コンパクトなサイズの廉価な出力トランスであっても、30Hzくらい難なく伝送できてしまいます。では、プッシュプル回路ならOKかというと、全くそうではないところに厄介な問題があります。シングルアンプとプッシュプルアンプとを比べてどちらの音が好きか、という問いに対して、無条件にプッシュプルアンプを推す人は決して多くないという現実です。いろいろ欠点はあるが総合的にはシングルアンプの音の方が好き、という意見は非常に多く、その比率は経験豊富な方ほど高いように感じます。
この現実を素直に受容すると、プッシュプル回路には何か重大な欠点があるのだ、という仮定に行き着きます。この問題については、前章「「全段差動プッシュプル・アンプって何?」ですでに詳細に説明しました。
■ヒントは信号ループ
そんなことを思っている一方で、オーディオ回路における信号ループについても考えていました。回路図上はアース記号が描かれていても、配線のやり方一つでアースや電源回路には信号電流は流れない場合もあれば、電源のコンデンサにしっかりと信号電流が流れる場合もあることに気がつきました。そして、シングル・アンプでは、普通はカソード回路のコンデンサと電源回路のコンデンサの両方にしっかりと信号電流が流れることも。その状態が下図のAです。そこで信号ループをショートカットさせたのがBです。カソードのコンデンサを無くして信号ループをよりはっきりさせたのがCです。Cの回路は、シングル・アンプの音を私が期待する方向に変化させる効果がありました。音の分離が良くなって、定位もしっかりしました。重要なのは、Cの回路では電源やアースには信号電流が流れなくなって、きれいに分離できました。
次に考えたのはカソード抵抗を定電流回路に置き換えて、より徹底した分離を行ったらどんな音がするだろうという興味でした。早速やってみたところ期待以上の好結果が得られました。
次に考えたのは信号ループをショートカットしているコンデンサを無くす方法はないだろうかということでした。その答えは簡単でした。コンデンサの代わりに真空管を入れればいいのでした。定電流回路は信号電流を通しませんが困ることはありません。2つの真空管が直列になって、出力トランスを駆動すればいいのです。
私の場合は、いきなり差動回路が思いついたのではなく、シングル回路の発展形としてたどり着いたのでした。全段差動PPアンプの音と、ショートループ・シングル・アンプの音は同じではありませんが、その鳴り方はどこか共通したものがあります。
■巷での評価
全段差動プッシュプル・アンプの音がどのようなものであるかは、私がごたごた述べるよりも、ネット上のみなさんの声に耳を傾けた方がいいと思います。「全段差動アンプとの出会い」より
今年の2月に真空管アンプの試聴会に行ってきました。目当てはゲスト出演された木村さんの全段差動PPでした。私の今までの作品を見ると気が付くと思いますが、PPに関しては1台もありません。ホームページを始める前に何台か作りましたが、どれも目当ての音にならず全て部品に戻っています。「PPなんて良い音しないよ。」と端から諦めていました。最近にもPPのアンプを借りてきて鳴らした事はあるにはあるのですが、うまく鳴ってくれませんでした。いくらボリュームを上げてもSPにべたっと張り付いた様な音でまともに鳴った試しがありませんでした。同HomePageより「E90CC全段差動ミニ・アンプ」からところが2月の試聴会で聞いた音は「目から鱗」の、今までの認識を全く覆す音でした。音離れが良く、アタックも鮮明で..そう、まるでSEのアンプの音です。噂には聞いていましたが、PPが駄目などと言うのは全く私の勉強不足でありました。木村さんに「私も作ります。」と約束し、プランを練り始めました。
OPTはアンバラのままですし、変な音だったらどうしようと思っていました。ところが、驚くほどまともに鳴り出したのです。最初あまりにゲインが低いのでびっくりしました。ボリュームは3時の方行を指しています。小さな音です。多分500mWは軽く下回るでしょう。でも、低域も崩れる事はありませんし、解像度も高く細かい部分も聞き分ける事ができます。それから、SEの十八番と思われた音離れですが、驚くほど良いのです。音量に関係なく音楽を楽しむ事ができます。小さい音なのに、隣の部屋で聞いてもはっきり聞こえます。これだけ、適当に組んでも尚、その性格を色濃く残しているのも驚きです。
この文章を書きながら聞いていますが、良く鳴っています。この音を聞いているとウン100Wとかいうアンプは何なのかと思います。基本的な回路が良いのでしょう。作りっぱなしで<、よくもここまで鳴るものです。深夜、一人で聞くには十分、お釣が来るぐらいです。 今までのSEアンプとの比較ですが、完成して日が浅いので細かい違いは良く解りません。音質はほとんど同じで、球による違い程度でしかありません。SEしかやらない人は全段差動は是非試す価値があります。目から鱗ですよ。
「百聞は一聴にしかずコンサート報告」より
2番目:木村さんの内部配線がすこぶる整然としているアンプ(6AH4GT全段差動プッシュプル・アンプ)
真空管アンプにありがちな脚色した音でなく正確で淀みの無い音であった。趣味の音と言うよりハイエンドの音と言うべきか。後で見せていただいた内部配線はすこぶる整然としていた。物作りの姿勢がそのまま音になって現れるのだろうか。出展アンプの顔(6AH4GT全段差動プッシュプル・アンプ)2番手のぺるけさんのアンプは、普段常用されているものということで、さすがにこなれた感じの音でした。ここの常設の2S−305がこれほど、ボディのしっかりした、豊かなサウンドを聴かせてくれたのは私の記憶では初めてではないかと思います。フィリッパ・ジョルダーノやバレンボイムのタンゴのCD等、メロディアスな選曲もあり、じっくりと音楽に浸ることが出来ました。
PPなのにSEの様な音がでます。あらゆるジャンルのソースをそつなくこなします。「SRPPドライブ6AH4GT全段差動プッシュプル・アンプ」より
「今までシングルを使っていましたが、安定の良い、重心の低い音にだつぼーです。」
「音の雰囲気の良さと音の心の揺らがない安定性に妻ともどもに吃驚です。」
「もう、シングルには戻れない気がします。」「●「富嶽」差動化の試み●」より
「前段差動」、「全段差動」、「全段差動直結」(「富嶽の仲間達」参照)と差動アンプを色々試してみて、その特徴が掴めたように思います。
○音は、どんな球にもふっくらとした柔らかさ、透明感、繊細感が加わる。
○新しい球でも充分エージングが進んで「熟成された」音が出てくる。
○出力はOPTが同じならプレート電流で決まるので、球のプレート損失勝負になる。
○「前段」だけの差動では、「差動の音」の特徴が出にくい。出力段の寄与が圧倒的。
木村 哲
2001.10.19(作成)
2009.11.7(加筆・修正)